【日本三大怨霊】菅原道真・平将門・崇徳院が怨霊と呼ばれる理由
こんにちは、管理人の凛です。
日本三大怨霊とは、「菅原道真(すがわらのみちざね)」「平将門(たいらのまさかど)」「崇徳院(すとくいん)」の3人の事を指します。この3人の歴史上の人物は、非業の死を遂げた事で知られています。
そもそも怨霊とは、「恨みを晴らそうと生者を祟る霊」の事です。この3人の最期があまりに残酷なものであり、恨みが深く、その後も様々な怪現象を起こしたという伝説が残っているために「日本三大怨霊」と呼ばれるようになりました。
日本には、歴史になぞらえて作られた伝説が沢山あります。その中の1つが、「日本三大怨霊伝説」です。「怨霊」というと、恐ろしい伝説のように感じる人もいるかも知れません。
しかし、三大怨霊の伝説の裏には、様々な歴史的背景があります。今回は、「菅原道真」「平将門」「崇徳院」が日本三大怨霊と呼ばれるようになった理由や、ゆかりのある土地についてご紹介します。
菅原道真は彼を陥れた人々に次々と不幸が訪れたために怨霊と捉えられた
菅原道真が日本三大怨霊と呼ばれるようになったのは、菅原道真を陥れた人々に次々と不幸が訪れたためです。以下で詳細を見ていきましょう。
菅原家の中でも優秀だった道真
菅原道真は平安時代に宮中で活躍した貴族です。菅原道真は、菅原是善(これよし)の息子として生まれました、当時の菅原家は学問に秀でた一族として有名で、宮中では「学者」として仕えていました。
菅原道真は大変頭が良く、862年には18歳で文章生(もんじょうしょう)と呼ばれる学生となり大学寮で学びます。数ある文章生の中でも、2名しか選ばれる事がない「文章得業生」(もんじょうとくごうしょう)にも選ばれ、官僚としての未来を約束されたエリートでした。
平安時代初期の日本では、唐に遣唐使を頻繁に派遣し交流を深めていました。それに伴い、漢字の文化が日本にも伝わってきたのです。菅原家は、漢字の分野に知見が深い学者として知られていたため、宮中でも引っ張りだこでした。
そんな中、成績優秀者だった菅原道真は宮中内でもどんどん出世していき、877年には学者としての高い地位を与えられます。
菅原道真が活躍している宮中内では、皇族以外で初めて摂政の地位を得た藤原良房と、関白相当の地位についていた藤原基経が絶大な権力を持っていました。そんな中、新天皇である宇多天皇が即位した事で、朝廷内の情勢は微妙に変わっていきます。
異例の人事!宮廷内で高い地位を得る
宇多天皇は、即位したての頃、宮廷内のトラブルに巻き込まれ悩んでいました。そこに菅原道真が的確なアドバイスをしたり、宮廷内のトラブルを解決したりして、宇多天皇の信頼を獲得していきます。
宇多天皇は、自分の政治的な手腕に自信が無く、精力的に実権を握ろうとはしなかったため、事実上の最高権力者は藤原基経でした。
しかし、藤原基経が死去した後は菅原道真が権力を握る事になります。そのライバルとして、権力争いをしていたのが藤原基経の息子である藤原時平です。その後、早々と天皇の座から身を引いた宇多天皇ですが、菅原道真を信頼していたために「右大臣」に即位させます。
学者身分の菅原道真が右大臣に即位する事は異例です。藤原の時平を始め、当時即位していた後醍醐天皇もこの人事に納得していませんでした。
そして899年、宇多上皇が出家してしまった事で事態は急変します。宇多上皇という後ろ盾がいなくなってしまった事で、菅原道真は宮廷内で孤立していきます。
これをチャンスと見た藤原時平は、後醍醐天皇に「菅原道真は後醍醐天皇を廃帝させるために陰謀を企てている」と伝え、不安を煽りました。その後、時平の言葉を鵜呑みにした後醍醐天皇により、菅原道真は左遷され大宰府に送られてしまいます。
菅原道真は、大宰府では幽閉され充分な食事も与えられず、悲惨な死を遂げました。
落雷や後醍醐天皇の病死などの出来事は菅原道真の祟りだと考えられた
藤原時平が39歳の若さで死去した後、宮廷には落雷が落ち、複数人の貴族が命を落としました。
落雷事件の後は、後醍醐天皇が病に伏しそのまま死去するといった出来事が、当時の人々を不安にさせました(落雷は菅原道真の怨霊がした事だと考えられていたために、道真は天神様と呼ばれるようになりました)。そして菅原道真の祟りを鎮めるべく、京都に立てられたのが北野天満宮です。
平安時代を過ぎると、菅原道真を怨霊とする声は薄らいでいき、代わりに「学問の神」として祀られるようになりました。
平将門は朝廷との争いによってさらし首になり怨霊となった
日本三大怨霊の1人である平将門は、平安時代中期に活躍した武士です。誕生月は分かっていませんが、平将門は延喜3年から元慶8年の間に誕生したといわれています。没年は天慶3年という記述が残っている事から、死去した当時の年齢は37歳から56歳くらいと推測できます。
この平将門が怨霊と呼ばれるようになったのは、その死後に恐ろしい怪談が噂された事が関係しています。
父・平良将の死後は遺領を巡り親族間で争う
平将門は、幼少期は母の出身地である下総国で育ったとされています。15歳から16歳頃に平安京に上京し藤原忠平に仕えていました。
父親である平良将(よしひら)が死去してからは、遺領を巡り親族間で争います。本来であれば、父である平良将が亡くなると、遺産は息子である平将門が相続します。もちろん、遺領も例外ではありません。
しかし、平良将の叔父である平国香(くにか)、平良兼(よしかね)、平良正(よしただ)によって遺領は独断で分配されてしまいました。
平良将には5人の兄弟がおり、遺産を分配する事で平将門の相続する遺領は減ってしまったのです。その事が親族争いに発展し、承平5年以降は合戦を繰り返します。
結果的に、この親族争いは平将門の完全勝利に終わります。当時、戦が起こった場合、その戦や行為に正当性があるか朝廷で裁かれる事になっていました。平将門は、敵軍を逃がすなど相手軍に対して情状酌量を測っていたために、朝廷の裁判も微罪で済みました。
朝廷との間に亀裂が生じ始める
朝廷との関係も良好だった平将門ですが、とある事件から朝廷の反感を買ってしまう事になります。それは「常陸国の住人の藤原玄明をかくまってしまった事」です。
藤原玄明は、受領と対立し租税も納めていませんでした。また大変な乱暴者であり、官物を強奪してしまった事から、国衙(こくが)から追捕令が出されていたのです。受領である藤原維幾は、当然、藤原玄明を捕まえようとします。
一方、藤原玄明は平将門を頼り、国へやってきました。なぜ、藤原玄明が平将門を頼ったのかというと、平将門と藤原玄明が対立していたためです。
親族争いの際、藤原玄明は敵軍についていたため、平将門との関係は良好ではありませんでした。藤原玄明の引き渡しを求め、藤原維幾は兵を送り込みますが、平将門の兵力に敵わず破れてしまいます。
勝利を収めた平将門でしたが、これが国への反逆行為とみなされ、朝廷から反感を買ってしまう事になりました。その後も平将門は領土を広げ、関東全域を支配するまでの勢力に成長し自らを「新皇」と名乗るようになります。
さらし首になった平将門にまつわる怪談が様々残されている
天慶3年(940年)、追討令が発され、藤原忠文が軍を率い平将門の討伐に向かう事になりました。結果的に藤原忠文の軍が到着する前に藤原秀郷、平貞盛によって討ち取られ、平将門はこの世を去ります。
平将門の首は、京都の七条河原町でさらし首になりますが、「何ヵ月も目を見開いていた」「歯ぎしりをしていた」などの噂話が囁かれるようになりました。
また、ある夜晒されていた平将門の首が自分の胴体を求めて関東方面へ飛び去って行ったという逸話もあります。
その後、宙を舞っていた首が落ちた場所として「東京都千代田区大手町」に平将門の首塚が建てられます。このように、平将門の死後、数々の恐ろしい逸話が生まれた事から、日本三大怨霊と呼ばれるようになりました。
崇徳院は天皇家に生まれながら不遇の人生を歩み祟り神になった
日本三大怨霊のあと1人は崇徳院です。崇徳院は天皇家に生まれながらも悲劇的な人生を送り、祟り神になったといわれています。
保元の乱に敗れた後讃岐に流されこの世を去る
崇徳院は元永2年(1119年)に、鳥羽天皇と藤原璋子の間に第一皇子として誕生します。しかし、祖父に当たる白河法皇の子ではないかとの噂もありました。生まれた年に親王宣下を受けた彼は、2年後には皇太子になり3歳という幼さで日本の第75代天皇として即位します。
しかし、鳥羽上皇は藤原得子(なりこ)を寵愛しており、その子供である躰仁親王を天皇に即位させたいと考えます。そのため、崇徳天皇は譲位を迫られ永治元年で天皇の地位から退きます。崇徳天皇は上皇となり、「崇徳院」と呼ばれるようになりました。
天皇に即位した躰仁親王(近衛天皇)は体が弱かったために、17歳の若さで崩御してしまいます。後継者候補として最有力だったのは、崇徳院の息子である「重仁親王」でしたが、そのようには進まず、どういうわけか美福門院の養子・守仁親王(後の二条天皇)が後継者になってしまったのです。
そして、守仁親王が成人するまではその父・雅仁親王(後の後白河天皇)が即位する事になりました。
後白河天皇派と崇徳院派に分裂した朝廷では「保元の乱」が勃発します。そんな中、鳥羽法皇が病に伏し崩御しますが「崇徳院には自分の遺体を見せないで欲しい」と周囲に伝え、見舞いに来る事を禁じるなど、崇徳院に対し冷たい態度を取るようになりました。
崇徳院は憤慨しましたが、この事が影響し、朝廷内では「崇徳院が左大臣である藤原頼朝と反乱を起こそうとしている」という根も葉もない噂が立ち始めます。
後白河天皇はこれに反応し、藤原の忠義・頼朝に軍を集めさせないように命令を下しました。危機感を覚えた崇徳院派は、味方である兵を連れ朝廷を逃げ出し、白河北殿に移りますが、城を朝廷軍に襲撃されてしまいます。
崇徳院は朝廷軍から逃れ、如意山(にょいやま)に身を潜めますが、ある時投降を決意します。結果的に、崇徳院は讃岐国に流される事になり、幽閉生活を強いられます。軟禁生活を強いられながらも仏教に傾倒していた崇徳院は、最期まで京に戻る事なくこの世を去ります。
崇徳院の崩御後「延暦寺の強訴」「安元の大火」などの事件が立て続けに起こった
天皇家に生まれながら、不遇の人生を歩んだ崇徳院は、恐ろしい祟り神になったといわれています。
崇徳院の父である鳥羽上皇は「近衛親王が死んだのは崇徳院(もしくは崇徳院に仕えていた藤原頼朝)の呪いのせいだ」と考え、崇徳院に政治的な権利を握らせないようにしていたのです。
それに加え、死後も罪人の扱いを受け天皇家の人間らしい扱いを受けませんでした。こうした理由から、崇徳院は祟り神になり、朝廷や京に災いをもたらしたといわれています。
崇徳院が崩御した後、「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」といった事件が立て続けに起こりました。これを「崇徳院の祟りだ」と考えた後白河天皇は、祟りを鎮めるべく「保元の宣命」を破却し、藤原頼朝にも高い位を与えました。
日本三大怨霊にゆかりのある地をご紹介
日本三大怨霊には、それぞれ関係の深い場所があります。以下ではそれらについて見ていきましょう。
菅原道真にゆかりのある地 北野天満宮・太宰府天満宮
菅原道真が「怨霊」と称されていた期間は短く、現在では学問の神様として人々に親しまれています。そんな菅原道真にゆかりがある土地として挙げられるのが現在の福岡県にある「太宰府天満宮」と京都にある「北野天満宮」です。
太宰府天満宮は、春になると沢山の梅の花が咲く事で知られています。この梅の木は、菅原道真が死去した後、道真を思って人々が植えたといわれており、愛される人柄であった事が推測できます。
北野天満宮は、500坪もの広大な敷地を有する神社です。菅原道真は「天神様」と呼ばれ、学問の神様として祀られています。年末年始は、受験生で大変な賑わいを見せる事で知られており、京都の観光地としても有名です。
現代でも恐ろしい噂が絶えない 平将門の首塚
次に、平将門の縁の地として挙げられるのが、東京にある「平将門の首塚」です(正門塚とも呼びます)。平将門の怨念は現世にも残っているといわれています。それは首塚を取り壊そうとした際に、決まってけが人や死人が出てしまうためです。
不可思議な事が起こったのは、関東大震災の影響で全焼してしまった大蔵省庁舎を再建しようとした時です。この首塚を1度取り壊し、庁舎を再建する事が決まったのですが、首塚を取り壊した後の2年間の間に関係者が14名も亡くなってしまったのです(その中には大蔵省大臣も含まれます)。
首塚にまつわる恐ろしい話はこれだけにとどまりません。終戦後、アメリカ軍が首塚を取り壊し始めると工事現場の重機が倒れ、運転手が亡くなってしまいました。この事から、工事は中止され、今でも東京のビル街の真ん中には「平将門の首塚」があります。
所変われば扱いも変わる!将門の出身地にある北山稲荷大明神
「平将門の首塚」は恐ろしい心霊スポットとして扱われますが、将門の出身地・茨城県坂東市にある縁の地は扱いが異なります。
茨城県坂東市では「将門川」など、将門の名前が付いている土地も多くあり、平将門にまつわるイベントなども開催されています。地元では、「平の将門は悪政から市民を守った存在」として扱われており、英雄視されているのです。
そんな茨城県坂東市には、平将門に関係するパワースポットがあります。それが、平将門の終焉(しゅうえん)の地とされている「北山稲荷大明神」です。
一般的に、平将門の最期の地といわれているのは、同じく坂東市にある「国王神社」ですが、地元の人々の間では「北山稲荷大明神」が、平将門の戦死した地といわれています。鳥居をくぐると小さな祠があり、安らかで清浄な雰囲気に包まれます。
香川に点在する崇徳院ゆかりの地 八十場の霊園・雲井御所跡
崇徳院にゆかりのある遺産は、香川県に多く残っています。香川県は、崇徳院が配流された讃岐であり、晩年を過ごした場所です。崇徳院にゆかりのある遺産として挙げられるのが「八十場(やそば)の霊泉」や「雲井御所跡」などです。
八十場霊泉は、崇徳院が崩御した際、都からの指示を待って遺体を漬けた泉として知られています。古くからパワースポットとして知られており、日本武尊の御子・讃留霊王(さるれおう)の悪魚退治伝説なども残っています。
雲井御所跡は、崇徳院が読んだ歌から名付けられた場所です。崇徳院は、和歌の名手としても知られており、この場所で詠んだ「ここもまたあらぬ雲井となりにけり 雲行く月の影にまかせて」という歌から名付けられました。
恐ろしい「祟り神」になってしまったといわれている崇徳院ですが、一方で、讃岐の地では守護神としての伝説もありました。承久(じょうきゅう)の乱で土佐に流された土御門上皇(つちみかどじょうこう)が道中、讃岐に立ち寄り、鎮魂の為に琵琶を弾きました。
すると、夢に崇徳院が現れ、京都にいる家族の安全を守ると約束したという逸話が残っています。ちなみに、土御門上皇は後白河天皇のひ孫にあたります。
まとめ
日本三大怨霊と称される菅原道真、平将門、崇徳院、この3人が日本三大怨霊として恐れられるのは、三者三様に不遇な人生を歩んだ事が深く関係しているのです。
現代にも恐ろしい逸話が残るなど、未だに恐ろしい怨霊として捉えられている側面もありますが、この3人に対する評価は時代の流れと共に変化しています。
日本三大怨霊は、恐れられているのにも関わらず、時代によっては神格化されるなど歴史的な評価が変わる点も、日本三大怨霊伝説の面白さと言えるでしょう。