【やさしい仏教入門】10分で分かる天上天下唯我独尊の正しい意味
こんにちは。管理人の凛です。
「天上天下唯我独尊」とは、お釈迦様が誕生した際に言った言葉として、日本でも広く知られている仏教の言葉です。
今回は、天上天下唯我独尊の正しい意味や出典、天上天下唯我独尊の考えを理解する為の基本的な仏教の教えをご紹介いたします。今一度正しい意味や由来等について理解していきましょう。
天上天下唯我独尊の読み方と意味
天上天下唯我独尊の正しい読み方は、「てんじょうてんが ゆいがどくそん」または「てんじょうてんげ ゆいがどくそん」です。
天上天下には、全世界、ひいては全宇宙という意味があります。
一方で唯我独尊には様々な意味があり、解釈が分かれています。自己中心的、自分勝手という意味にも捉えられやすいですが、本来はもっと違う意味を含んでいます。
天上天下と唯我独尊、それぞれの言葉の意味について詳しく見ていきましょう。
天上天下は宇宙全体の事を指す
天上天下は目に見えるスケールの世界の事ではなく、仏教的な意味での「世界」を表しています。
私たちが暮らしている地球の事を仏教では「須弥世界」と呼びます。
この須弥世界が1000個集まったものが「小千世界」です。
小千世界がさらに1000個集まって「中千世界」と呼びます。
さらに中千世界が1000個集まって「大千世界」になります。
小千世界、中千世界、大千世界が3つ合わさって三千大千世界。そしてこの三千大千世界が東西南北上下に無数に存在している事を十方微塵世界だと言われています。
天上天下とは、このような果てしないスケールの大きな世界の事を指しています。
唯我独尊には大きく3つの意味がある
「唯我独尊」は独りよがり、自分勝手と同じような意味で捉えられる事がありますが、これは「唯我」が自分だけが唯一、「独尊」は独り尊いという意味に捉えられる為です。近年で世間的にもっとも認知されている唯我独尊の意味は、この意味合いが強いようです。
しかし実際には、唯我は必ずしも自分一人だけ、という意味ではありません。また、独尊には唯一の尊い使命、目的という意味があります。これらの事から、唯我独尊は大きく3つの意味で解釈されています。
自分は世界で唯一の尊い存在である
唯我独尊とは自分だけが一番偉い、という事ではなく、自分は世界で唯一の尊い存在であるという意味です。
誰かと比べて偉い、優れているという訳ではなく、自分はこの世界にただ一人しかいないのだから大切にしなければならない、自分の考えや信念を見つけ出してそれに従って生きる事が大切だ、という意味です。
皆が唯一無二の存在である
お釈迦様は、自分自身の事を言い表す時には「吾」と表します。その為「我」をお釈迦様自身の事ではなく、「全ての人」と解釈したのがこの意味です。全ての人として解釈すると、唯我独尊は「皆がこの世界で唯一無二の、オンリーワンである」といった意味に捉えられます。
人はそれぞれに外見だけでなく思考も違います。自分とまったく同じ人間はこの世界には一人として存在しません。皆が皆生きている事に意味があり、オンリーワンの個性や魅力があり、それを大切にしなければならないという意味も込められています。
自分の信じる道を進む、自分の信念を大切にするといった意味にも捉えられ、自己を曲げたくない時に奮い立たせてくれる言葉として考える人も多いです。
人間は他の生き物よりも尊い
唯我は人間だけ、つまりこの世界の生命の中でも人間だけが、と解釈したのが、この意味です。
仏教には、人間として生まれる事がいかに尊い事であるかという教えも沢山あります。それは、この世の全ての生き物は輪廻転生を繰り返している、という仏教の考え方によります。
輪廻転生を繰り返すのには理由があり、その魂が持っている使命を果たさなければなりません。使命を果たす事で輪廻転生が終わり、魂が解脱出来るのです。
生き物の中でも、仏教を学び、教えを得る事が出来るのは人間だけです。つまり解脱出来るのも人間だけ、と仏教では考えられてきました。その為、唯我独尊は「人間こそが他の生き物よりももっとも尊い」という意味に捉えられる事があるのです。
天上天下唯我独尊の出典は不明
仏教の言葉として有名な天上天下唯我独尊は、お釈迦様の言葉です。お釈迦様がルンビニで生まれた時、東西南北に7歩ずつ歩き、右手で天を指差し、左手で大地を指差し、この言葉を言い放ったと言われています。
しかし、それはいつから言われ始めたのか、エピソードの出典は未だに判明していません。
三蔵法師が書いた「大唐西城記」に「天上天下唯我独尊」の記述があったとも言われており、これが一番古い記述ではないかとも言われているものの明言はされていません。
また、紀元前5世紀の北インドには釈迦族という一族がおり、この王子が「天上天下唯我独尊」の言葉を放ったとも言われています。これがお釈迦様が話した言葉として言い伝えられているという説が今はもっとも有名です。
お釈迦様が7歩歩いた事にも意味がある
お釈迦様は生まれてすぐに東西南北に7歩ずつ歩いたと言われていますが、この数にも仏教ならではの意味があると考えられます。
仏教の輪廻転生にはランクがあり、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上といった六道のいずれかに生まれ変わります。この六道には迷いや苦しみがあり、六道から抜け出す為には仏教の教えを聞き、解脱する必要があるのだそうです。
お釈迦様が歩いた7歩とは、六道を抜け出して解脱する事を指しています。
誕生日には甘露が降ったというエピソードもある
4月8日はお釈迦様の誕生日であり、花祭りが開催されます。
この花祭りではお釈迦様に甘茶をかけて祝いますが、これはお釈迦様が生まれた時に甘露が降ったから、または香水でその体を洗い清めたからという由来があります。
お釈迦様は本当に「天上天下唯我独尊」と言ったのか
お釈迦様が本当に生まれてすぐに東西南北に7歩ずつ歩き、天と大地を指差して「天上天下唯我独尊」という言葉を言い放ったとしたら、普通の人間ではありえないほどの超人的な行動ですが、これをそのままの意味で捉えてはいけません。
お釈迦様、つまりブッタは、神様ではなく普通の人間として生まれました。ですがその後仏の教えを開き、多くの人々に崇められるようになりました。
そのブッタの伝説を後世に残す為に人々が神格化し、言い伝えもどんどんこのような大げさなものになっていったと考えられます。
ブッタほどの尊い人物が、普通の人間と同じような生まれ方をするわけがない、普通の人間とは違う行動を取るはずだ、という考えが「天上天下唯我独尊」に繋がっていったのではないでしょうか。
仏教の教えが文字、文献として残されるようになったのは、ブッタの死後数百年が経ってからです。それまでは仏教を学ぶ弟子たちに伝聞で言い伝えられていました。その中でお釈迦様の出生は現在言い伝えられているような形になっていったと考えられています。
本当に大切なのは真実を見極める事
「天上天下唯我独尊」は言い伝えの中で生まれた伝説であり、言わばフィクションと呼んでしまう事も出来ます。しかし、フィクションだから意味がないという訳ではありません。この「天上天下唯我独尊」のエピソードに込められた真実の意味を見極める事こそが大切なのです。
お釈迦様はそれほどに超人的な人であった事、お釈迦様の教えや行動を学ぶ事で我々は救われるという事をこのエピソードからは学べます。
仏教の教えは、お釈迦様の出生だけでなく他にも色々なエピソードが出てきます。その中には「天上天下唯我独尊」のような超人的なエピソードも沢山あります。
これは言い伝えによって話が大げさになってしまったというものもありますが、そのエピソードに込められた真実や本当の意味を見極める力を身に付ける事も仏教では大切です。
天上天下唯我独尊に続く「三界皆苦吾当安此」
佛本行集経、修行本起経等によると、お釈迦様は天と地を指差して「天上天下唯我独尊」と言い放ったあと「三界皆苦吾当安此」とも言ったそうです。この意味についても詳しく知る事で、より天上天下唯我独尊の意味を掘り下げて理解していく事が可能になります。
それでは、三界、皆苦、吾当安此のそれぞれの意味について詳しく見ていきましょう。
三界は私たちの住む世界を指す
三界とは、私たちの住む世界を3つに分類したものです。欲望のみで生きている世界を欲界、絵画・音楽・文学等の芸術の世界を色界、さらに物事を超越した精神世界の事を無色界と呼びます。この三界の中でも無色界がもっとも高尚ではありますが、人生の目的や本当の幸福については明言されていません。
5つの欲望のみで生きる欲界
三界の中でももっとも位が低いのが欲界です。食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲といった五つの欲望のみで生きている世界の事で、食べたい、お金を儲けたい、愛されたい、人から認められたい、眠りたいという基本的な欲望を示します。
芸術に生きる意味を求める色界
色界は、絵画、音楽、文学等の芸術に生きる意味を求める世界の事です。欲界での単純な欲望は、どれだけ追い求めても満たされる事はなく刹那的な幸福しか得られません。すると次に、芸術を追い求めれば幸福が手に入るのではないかと考えるようになります。
しかしこれらの芸術もいつか滅びます。その時代や文化の価値観に合わなければ認めてもらう事も出来ず、ただ埋もれていくだけです。人に認められたい訳ではなく、自分が表現したい事を表現するだけだとしても多くの芸術家は最後まで悩み、苦しんでいます。芸術の世界も、追い続ければ幸せになれるというものではありません。
精神世界である無色界
無色界は、形のある物事ではなく精神の世界です。欲界、色界で形のあるものはいずれ滅びると悟った人は、次に精神世界を追い求めるようになります。精神的に生きる意味を見出す事が出来れば、誠の幸福を得る事が出来るのではないかと考えます。
しかし哲学、思想をいくら追求しても、本当の意味での幸せは見つかりません。考え続ける事もまた悩み、苦しみとして降りかかるのです。
「皆苦」は三界での苦しみを指す
三界皆苦吾当安此の「皆苦」は、三界での苦しみを意味します。
欲望のみの世界で生きていると、手に入らないものに悩んだり必死になったり苦しまなければなりません。
芸術を追求すると、思い悩んだり、人との比較に苦しんだり、こちらも苦しむ事になります。
三界の中でももっとも高尚である無色界であっても、本当の幸福は得られません。
「三界皆苦」は、この世界のどこにいても悩み、苦しみから逃れる事は出来ないという意味です。
吾当安此は三界にいても幸せになれるという意味
吾当安此の「吾」はお釈迦様自身の事を指し、「此」はこの三界の事です。欲界、色界、無色界といった三界にいながら、本当の意味での幸福を見つける、という意味です。
仏の教えを学ぶ事で、どんな人間でも幸せな人生を歩めるようになります。お釈迦様も私たちと同じ三界にいながら仏の教えにより本当の幸福を見出し、そして悩める全ての人々を幸福に導こう、と決意をしたのがこの言葉です。
天上天下唯我独尊に続く「今茲而往生分已尽」
西遊記でも有名な三蔵法師が書いた書物「大唐西域記」にも、天上天下唯我独尊の記述があります。それによると、お釈迦様は天上天下唯我独尊のあとに「今茲而往生分已尽」という言葉を残したと記載されています。
今茲而往生分已尽には、今ここで生まれてきた事によって自分の輪廻転生は終わった、という意味があります。
使命を果たす為、つまり仏の教えを人々に広めて多くの魂を幸福に導く為に生まれたので、今後輪廻転生によって生まれ変わる事はないと言っているのです。自ら輪廻を止めてさらに高みに上る事を、生まれてすぐに決意した言葉です。
天上天下唯我独尊を説いた仏教の基本的な5つの教え
仏教の基本的な教えを理解すると、天上天下唯我独尊という考えに対する理解が深まります。以下で基本的な仏教の5つの教えについてご紹介するので、内容を把握した上で今一度天上天下唯我独尊について考えてみましょう。
普遍的に続く愛を全ての人に平等に持つ
愛には恋愛や友愛、親愛等がありますが、その中でも変わらない愛、普遍的な愛が慈愛です。仏教ではこの慈愛の心を持つ事が何よりも大切だとされています。
四無量心という言葉が仏教にはあります。
- 相手の幸せを願い、友愛の心で接する慈無量心
- 苦しんでいる人に同情心を持ち苦しみを分かち合う悲無量心
- 相手の幸せを妬まずに、一緒に喜んであげる心を持つ喜無量心
- 物事や人、思考に執着せず、動揺しない心を持つ捨無量心
この四つの心が四無量心です。この慈愛の気持ちは、悩み苦しむ人々の魂を仏の教えで救うというお釈迦様の行動にも通じるものがあるでしょう。
自分の思い通りにいかない事がこの世にはある
仏教で魂を幸福に導く事は出来ますが、だからと言って何もかもが思うように進む訳ではありません。その事を仏教では「四苦八苦」と言います。
この言葉は日常的にも使われる事が多いですが、本当は仏教にまつわる言葉です。
- 生きているだけで苦しむ
- 老いに苦しむ
- 病に苦しむ
- 死への恐怖に苦しむ
- 愛する人との別れに苦しむ
- 憎い人と出会う事に苦しむ
- 欲しいものが手に入らない事で苦しむ
- 体と心が思うように出来ない事に苦しむ
仏教ではこれらのどうしようもない苦しみの理由を、次に挙げる「諸行無常」「諸行無我」「涅槃静寂」という3つの言葉で説明しています。
物事は常に変化している
物事は常に変化し、一つの場所に留まる事がない、という教えが諸行無常です。平家物語の冒頭にもこの言葉が使われているので、聞いた事があるという方も多いでしょう。
人間の体だけでなく心や、他人との関係性、財産、知識等は、永遠にそのままでいてほしいと願っても必ずそのとおりになる訳ではありません。むしろ形のあるものはいずれ滅んでいきます。物事に執着する事の苦しみから解放されるには、諸行無常の教えを理解する必要があるのです。
物事は必ず何らかの関係性がある
物事は必ずどこかで何かと繋がっており、他からの影響を受けないものは何もない、という教えが諸行無我です。
例えば自分の体は自分だけのものだと思っている人が多いですが、その体は父親、母親がなくては存在しえなかったものですし、ここまで成長出来たのは様々なものを食べ、眠り、多くの人の支えを受けてきたからです。
物体についても、それを作った人がいる、それを作った環境があると、必ず何かと関係を持っています。自分一人では生きていく事は出来ない、人は何らかの関係性の中で生きているという教えが、この諸行無我です。
全ての苦しみを乗り越えた涅槃寂静
形あるものはやがて滅んでいくという諸行無常、物事は必ず何かと関係性を持っているという諸行無我の教えの先に涅槃寂静という教えがあります。
涅槃はあらゆる煩悩から解放された世界の事です。煩悩がなく、揺るがない安らぎのみがある境地を寂静と呼びます。どんなに執着しても物事はいずれ滅びる、物事は関係性なしには成立しないという事を受け入れて、外部からの影響に動じない心を持つ事で、この涅槃寂静を理解出来るようになります。
四苦八苦を乗り越える為には「四諦」が必要
先ほどご紹介した四苦八苦を乗り越える為には、「四諦」という考えを身に付ける必要があります。
- 苦諦:人間は生まれながらに苦しみを背負っているという考え
- 集諦:苦しみは人の心のあり方に起因するという考え
- 滅諦:全ての苦しみから解放された境地
- 道諦:さらに滅諦を実現する為の真理
この4つを合わせたものが四諦です。
これらの真理を得る為には、下記の八正道を実践し、悟りを開く必要があります。
- 正見:正しい視線で物事を見る事
- 正思惟:正しい考え方を持つ事
- 正語:正しい言葉でその対象を語る事
- 正業:正しい行いをする事
- 正命:正しく生きる事
- 正精進:正しく努力を積み重ねる事
- 正念:正しく念を集中させる事
- 正定:正しい心を定めた状態にする事
仏教において「正しさ」とは調和のとれた思考、生き方を指します。自己中心的な考え方、自分本位な考え方は、一時的には幸せになれるものの巡り巡って自分自身の不幸を招きます。
そうではなく、本当の幸福を見つける為には大きな視点で物事を見て、人々にとって、自分自身にとって正しい行いをする事こそが大切だと考えられているのです。
この八正道は、仏教において悟りの境地を目指す上で必要な項目です。これらの全てを実践しなければ悟りを開く事は出来ません。
地獄へ行かない為には「五戒」を守る事が大切
仏教では、地獄へ行かない為に5つの規律を守らなければならないと言われています。
それが五戒と呼ばれるものです。
- 不殺生戎:生き物を殺してはいけない事
- 不楡盗戒:人の持ち物を盗まない事
- 不邪姦淫:淫らな行いをしない事、道に反した行いをしない事
- 不妄語戒:物事に対して嘘をつかない事
- 不飲酒戒:酒をみだりに飲んで悪さをしない事
この5つの戒律は、仏教の道を行く男女ともに守る必要があります。
陰陽がある事でバランスが取れている
物事には全て二つの面、光と影があります。太陽と月、男と女といった風に、正反対のものが存在する事でバランスが取れているのです。この状態が陰陽と呼ばれるものであり、陰陽のバランスを守らなければ世界は均衡を崩し、崩壊してしまいます。
正しい行いをする八正道が陽であれば、悪い行いをしないという五戒は陰という位置づけになります。この両方を守る事でより良い人生を歩む事が出来、本当の幸せを見つける事が出来るのです。
まとめ
「天上天下唯我独尊」の正しい意味や、それに続く言葉の意味、仏教の基本的な教えについてご紹介いたしました。
仏教では、人は皆一人ひとりが尊い存在であり、本当の幸福を見つけられるという教えを説いています。天上天下唯我独尊は自分本位でわがままな人という意味に捉えられがちですが、本当はそうではありません。人間はどの生き物よりも尊い存在であり、1人ひとりが大切にされるべき存在だ、という意味があります。
人生を歩む上で大切な事に気づかせてくれるこの言葉を、今一度本当の意味で理解出来るように仏教の教えを学んで行きましょう。