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【やさしい仏教入門】悟りとは何か?を分かり易く徹底解説!

悟り

こんにちは。管理人の凛です。

「悟り」とは仏教用語ですが、どこか達観した所がある人の事を「あの人は悟っている」と言う等、日常会話でも使う事が多い言葉です。

また、悟りがどのような状況かは説明できなくても、仏教の修行の先にあるもの、というイメージも定着しています。

今回は、実際に悟りとは何なのか、どのような種類があるのか、どうすれば悟る事が可能なのか等、悟りについて見ていきましょう。

目次

悟りを簡単に言うと「迷いのない状態」

仏陀

仏教において悟りとは非常に奥深いもので、簡単に言い表せるものではありません。

しかしごく簡単に説明すると、迷いのない状態、永遠の心理を獲得した状態の事を言います。

悟りを得るにはこの世の真理を知る必要がありますが、この真理というのは数学等、きっちりと決められた科学的な真理の意味ではなく、世界中の人が幸せになる為の真理の事です。仏教ではこの大宇宙の真理の事を「真如」と呼びます。

真如は言葉では言い表す事が難しい概念ですが、悟りを目指すには言葉で真如とは何かを聞かなければなりません。

この世のものは全て形を変えて滅びていく事を理解し、悩みや苦痛、煩悩から開放されて幸福な人生を歩む為には、この真如を会得する必要があるでしょう。

日常会話で使われる悟りとは意味が違う

何かを諦めたり、何かに気づいた時等に「悟った」という言葉を使う時がありますが、この悟りと仏教の悟りは意味がまったく違います。

仏教の悟りには様々な種類があり、段階が違えばその言葉の表す状態も大きく変わるのです。悟りを極める為には、仏教についてよく理解し、学び、修行を積み重ねていく必要があります。

悟りを開くと自覚覚他と覚行窮満の状態になる

仏は自覚覚他と覚行窮満である、と伝えられる事もあります。仏の教えを学び、悟りを開いた人はみんな自覚覚他と覚行窮満の状態になります。

この自覚覚他と覚行窮満について、どのような状態なのかを理解すれば、悟りにより近づけるかもしれません。

まず自覚とは、自分で悟るという意味です。自分で宇宙の真理を理解し、幸せになれる真理を理解していきます。仏教では幸福な人生を歩む為、自分の魂を救う為に修行を積み重ねて悟りを目指しますが、自分だけが助かればそれで良いという考えでは悟りを開く事は出来ません。

覚他は他を悟らせる、という意味で、自分以外の人を幸せにする、という事でもあります。自分が悟りを開き幸せになった所で、他の人が同じように幸せでいるとは限りません。悩み、苦しんでいる人を救う行いも悟りには重要です。

しかし他人を助けて自分の悟りを開こう、という気持ちではなく、悟りを開いた状態でいると自然と他の人の魂も救う為に行動している、という方が順番としては正しいです。

覚行窮満の窮満とは完全無欠の状態の事です。他の人の魂を救うと決めたら途中で投げ出したりせず、最後までやり遂げる様を示しています。

仏教は自利利他の精神が大切

仏教は自覚覚他と覚行窮満の状態になる事を目指しますが、その状態を自利利他とも呼びます。自利利他とは自分の幸福、他人の幸福を願う事で、自分だけでなく他の人も幸せになってほしいと思うだけでなく実際に行動する事も含まれます。

他人の喜びは自分の喜びとして、また自分の喜びは他の人に分け与える、という精神が自利利他です。この精神を十分に理解しておかなければ、つい「自分だけ悟りを開く事が出来れば良い」という考えに陥ってしまい、かえって修行の妨げになってしまいます。

悟りには52段階がある

階段

仏教の悟りには52の段階があります。一口で悟りと言っても、その内容は大きく違っており、悟りの段階が一つ上がると人間と虫ほどの違いがあるとも言われています。

それぞれにどのように呼ぶのかを見ていきましょう。

1段階から10段階は「十信」

最初の1段階目から10段階目までは「十信」と言います。十信は、仏の道に進む為、そして菩薩を目指す為にどのような事が大切かを知る段階です。

初信、二信、三信…と数えていきます。最下位の初信は「信心」と呼ぶ事もあり、迷いや悩みのない純粋な気持ちで仏の教えを信じる事の意味があります。

11段階から20段階は「十住」

11段階から20段階は「十住」と言います。初住、二住、三住…と数えます。

21段階から30段階を「十行」

21段階目から30段階目までを「十行」と言います。初行、二行、三行…と数えます。

31段階から40段階は「十回向」

31段階目から40段階目までを「十回向」と呼びます。初回向、二回向、三回向…と数えます。

40段階目までの悟りを「退転位」とも言います。退転とは油断すると崩れる、という意味で、40段階までの悟りの段階にいる人は、少しの油断でもまた一から悟る為の修行をしなければならない、と教えられています。

41段階から50段階は「十地」

40段階から50段階の事を「十地」と呼びます。初回向、二回向、三回向…と数えていきます。

41段階以上の悟りの事を「不退転位」と呼びます。これは油断すると崩れる事である「退転」ではない状況、つまりどんな事があっても崩れる事のない悟りを得た状態を指します。

51段階は「等覚」

51段階目は「等覚」と言います。これは、悟りの最高位である52段階目とほぼ変わりがないと言われています。

しかし次の52段階目の悟りを開いたのはこの世でお釈迦様だけです。

52段階は「仏覚」

悟りの中でも最高位を「仏覚」と言います。

他にもこれ以上の悟りの境地はないという意味で「無上覚」と読んだり、めったにない珍しい悟りである事から「妙覚」と読んだり、「阿耨多羅三藐三菩提」と呼ぶ事もあります。

52段階の悟りを開く事が出来たのはお釈迦様だけ

涅槃像

仏教が生まれ、また日本に伝わってかなりの歴史がありますが、これまでに本当の意味で悟りを開く事が出来たのはお釈迦様だけだと伝えられています。お釈迦様は52段階の最高位である仏覚に到達しました。

その700年後、インドの龍樹菩薩という人が41段階目の悟りを開きました。これがお釈迦様の次に位の高い悟りを開いた人です。さらにその200年後に無著菩薩が41段階目の悟りを開きました。非常に厳しい修行をしたと言い伝えられている禅宗の元祖、達磨でも30段階目までしか到達する事は出来ませんでした。

この事から悟りを開くのはいかに難しい事かが伺えます。

悟りの段階はお釈迦様の話から

悟りの52段階は誰が決めて、誰が悟りの段階を認定するのでしょうか。

正確には悟りの段階を誰が決めた、と言う事は出来ませんが、お釈迦様の話を書き記したお経からこの段階が決定されたと言われています。

お釈迦様が、悟りを開くとこのような事が分かる、このような心境になる、という事を一段階ごとに詳しく話しており、その記録から段階が定められていくようになりました。悟りを決めたのはお釈迦様ではなく、元々あった悟りの境地、心境をお釈迦様が見つけて、それを弟子たちに伝えたものです。

悟りを開くには長期間にわたり「三学」の修行をする必要がある

修行

仏教の悟りは非常に奥深いもので、簡単に悟りを開く事は出来ません。

まず、長期間にわたって三学の修行をする必要があります。

三学とは「戒」、「定」、「慧」の事で、以下の意味を持ちます。

  • 戒:煩悩を抑える事
  • 定:煩悩を遮る事
  • 慧:煩悩を断ち切る事

まずは今ある煩悩が顔を出さないように抑える事から始まり、次に煩悩が生まれないように感情をコントロールするというのが三学の修行の流れです。

最後には完全に煩悩を断ち切り、欲望や嫉妬等の悪い感情が生まれないようにしていきます。

これらの修行には色々な方法があります。正しい道に進む為だけでなく、間違った道に落ちない為の戒律も守って毎日生活し、修行を重ねていく必要があるでしょう。

最高位の悟りを開く為に必要な事

最高位の悟りである仏覚を目指すには、大宇宙の真理を理解する必要があります。この真理は、常に仏教の事を考えていなければならず、他の事に気を散らしていると理解する事が出来ません。

お金を稼ぐ事や生き物の殺生をする事、お酒を飲む事、結婚する事等も禁止されており、非常に厳しい毎日を送らなければなりません。お金がなく、食べ物を食べる事が出来ず、死にそうになっても、汚い手を使って生きながらえようとしてはいけません。

仏覚を目指す修行というのは、文字通り命懸けの行為なのです。

この52段階目の仏覚に至るまでには三大阿僧祇劫の修行が必要だと言われています。三大阿僧祇劫というのは年月の単位の事で、何十億年、何百億年という気が遠くなるほどの長い年月を指します。

一度の人生ではもちろん仏覚にたどり着く事は出来ず、何度も輪廻転生を繰り返さなければなりません。お釈迦様は仏覚の段階に上るまでに6年間の修行が必要だったと残されていますが、これははるか前世から修行を積み重ねてきたから、という事です。

悟りを開けるようになる心境とは

心境

仏教の修行には様々な種類があり、宗派によってもその内容は違います。

ここでは誰にでも分かるように、悟りを開ける心境についてもご紹介しておきます。

悟りを開くのは非常に難しく、下記のような心境になれたとしても必ず悟りを開けるという訳ではありませんが、入口だけでも知っておくことは人生の糧になるでしょう。

物事に執着しない

仏教では物事に執着する事の愚かさを何度も説いています。

いずれ変化し、滅びてしまうものに気持ちを寄せるのは煩悩や欲望を生み、人生を不幸なものにしてしまいます。時代によって価値が変わるお金や地位、ステータス、ちょっとした出来事で崩れてしまう人間関係、いつまでも保つ事は出来ない外見等に執着する気持ちは捨ててしまいましょう。

生きていく為に何事も最小限あれば良い、という事に気づく事が出来れば、悟りに一歩近づいた状態になります。

物事の断捨離を上手にする

沢山の物事に執着するとそれだけ欲望、煩悩も生まれ、人生が苦痛なものになります。上手に手放せる人は、悟りにも近づきやすいです。

誰かから欲しいと言われたら簡単に差し出せるような広い気持ちを持たなければなりません。

人間関係においても、束縛したり相手をコントロールしようとせず、流れるがままに過ごす事が大切です。

欲望を無くす

人は生きていると「もっとお金が欲しい」「もっと名声が欲しい」「もっと愛されたい」等という欲望を抱いてしまうものですが、このような欲望を無くす事で仏教の悟りに近づく事が出来ます。

欲望がないと人生の活力も見失ってしまうのではないか、と心配する方も多いですが、これらの欲望を無くすという事は、無い状態を欲しがる、という意味でもあります。現状に満足し、満たされない、もっと欲しいという心境にたどり着く事が出来れば悟りを開くのも時間の問題かもしれません。

自分も他人も大切にする

仏教の教えを聞くと自己犠牲の気持ちが大切だと思ってしまう方も多いですが、自己犠牲とは微妙に違います。自分は自分、他人は他人と境界を引き、どちらも同じように大切にする事こそが大切です。

自分だけを可愛がっていると当然悟りに到達する事は出来ませんし、他人に尽くしてばかりで自分を顧みないでいても悟りを開く事は出来ません。

まとめ

仏教用語である悟りとは、仏教を学び修行する人が最終的に目指すものではありますが、悟りを開くのは非常に難しく、様々な修行が必要です。

簡単に「悟りとはこのようなものです」と言い伝える事も難しい為、仏教を学んでいない方にとっては理解しがたい部分もあるでしょう。

しかし、悟りとは何か、その入口だけでも理解する事で、より仏教、ひいては悟りを身近に感じられるはずです。ぜひ悟りの概念を人生に役立てていきましょう。

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