【崇徳天皇】妖怪や怨霊と呼ばれる本当の理由を徹底解説【閲覧注意】
こんにちは、管理人の凛です。
崇徳天皇をご存知でしょうか。詳しくは知らなくても、歴史の授業で名前だけは聞いた事がある、という人もいるでしょう。
歴史の授業では数行しか触れられない崇徳天皇ですが、その人生は実に壮絶なものでした。その壮絶さ故にこの世に恨みを残して崩御し、妖怪、怨霊となってこの世を祟ったとも言われています。
今回はそんな崇徳天皇の人生、なぜ妖怪・怨霊になってしまったのかについて等をご紹介します。
崇徳天皇の人生は悲惨な事の繰り返しです。読むだけでも胸が苦しくなるかもしれませんので、苦手な方は観覧しない事をオススメします。
崇徳天皇の生い立ち
崇徳天皇の生い立ちについてご紹介いたします。
崇徳天皇は非常に高貴な身分の生まれでした。そのような人物がなぜ妖怪や怨霊になったと言い伝えられているのでしょうか。
その人生には、非常に壮絶なエピソードがいくつもあります。
祖父の白河法皇の子である疑いがあった
崇徳天皇は平安時代後期、1119年に生まれました。
鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれた第一皇子でしたが、その本当の父親は崇徳天皇の祖父でもある白河法皇なのではないか、という噂が絶えませんでした。
その為崇徳天皇と鳥羽天皇との間には、生まれた時からの深い軋轢がありました。
崇徳天皇は生まれたその年には親王宣下を受け、その後皇太子になります。鳥羽天皇が譲位すると、第75代目の天皇に即位しました。
3歳で天皇に、その後若くして譲位
崇徳天皇が天皇に即位したのはわずか3歳の時でした。その後鳥羽上皇が藤原得子を寵愛するようになります。
二人の間に子供が生まれると、その子供を天皇にする為に崇徳天皇は譲位を迫られる事になりました。
1141年、22歳の若さで弟に天皇の地位を譲る事になった崇徳天皇は、その後は上皇として崇徳院と呼ばれます。
通常なら譲位した後は院政を行う事が可能でしたが、弟が天皇である場合は院政は不可能でした。
天皇の崩御後も子供を即位させられなかった
崇徳天皇の後に天皇になった近衛天皇は体が弱く、わずか17歳にして崩御してしまいます。
その当時崇徳院にも子供がおり、次の天皇候補として最も有力なのはその重仁親王でした。
しかし実際にはその通りに事は運ばず、美福門院(かつての藤原得子)の養子である守仁親王が後継者として認められ、守仁親王が成人するまではその父である雅仁親王が天皇として即位する運びとなりました。
子供を即位させる事が出来なかった崇徳院は院政を行う事も出来ず、立場がなくなってしまいます。
後白河天皇派と崇徳上皇派による保元の乱
1156年、鳥羽法皇が崩御します。
その直前に崇徳院は自分の父親である鳥羽上皇を見舞いに行きますが、面会を断られてしまいます。
また、鳥羽法皇は遺言として「自分の遺体を崇徳院に見せるな」と言い残しています。これには崇徳院も憤慨し、この事と上記の天皇即位をめぐってついに保元の乱が起こります。
保元の乱後の白河天皇と崇徳上皇の争いは、後白河天皇の方が戦力で勝っていたうえ、「崇徳院が藤原頼長と協力して反乱を企んでいる」等の噂が流れ、崇徳院は思うように行動が取れなくなってしまいます。
その後崇徳院は如意山に逃れ、最終的には剃髪して投降する事となりました。他の崇徳院に味方していた公家、武士も、実権を奪われたり、斬首等の厳しい処遇が与えられました。
讃岐に配流され、京に戻る事なく崩御
崇徳院が剃髪して投降したのには理由があります。
かつて薬子の変で負けた平城上皇は、剃髪して投降し出家をする事で、隠棲地で手厚い待遇を受けて最期の時を迎えたという記述がありました。
崇徳院もこれを参考にし、投降後も安らかな暮らしが出来るようにと出家を決意したのです。しかし、薬子の変の時とは時代が違い、当時は出家していれば院政を行う事は出来ませんでした。
崇徳院の時代には出家をしていても院政を行う例があったので、崇徳院が出家をしたからと言って後白河上皇の立場から考えると安心材料にはならなかったのです。
守仁親王が成人するまでの間に中継ぎという立場で天皇に即位している後白河天皇ですが、万が一守仁親王が死んでしまった場合はその立場は一気に弱くなります。
そこに崇徳院が目をつける可能性もあると考えられました。
出家した崇徳院は同母弟である覚性法親王に取り成しを依頼します。しかし覚性はこの依頼を断りました。
崇徳院は結局鳥羽から讃岐へ送られる事になりました。天皇、及び上皇が配流されたのは400年ぶりとも言われています。
崇徳院と共に讃岐に渡ったのは近衛佐局と数人の女房だけでした。
崇徳院は配流されてからその後は京に戻る事はなく、46歳の若さで崩御しました。この死には未だに謎が多く、京の刺客である三木近安に暗殺されたのではないかとも言われています。
なぜ崇徳天皇は妖怪・怨霊となってしまったのか
崇徳天皇はその立場によって、普通であれば考えられないほどの壮絶な人生を歩む事になった人物です。
しかし、壮絶な人生を歩むだけでは今現在になっても妖怪、怨霊として噂されるような事はないでしょう。
どのような出来事があって崇徳天皇が妖怪、怨霊として恐れられるようになったのか、どの代表的なエピソードをご紹介いたします。
院政になるチャンスを与えられなかった
崇徳天皇は腹違いの弟に天皇の座を譲位して以来、院政を行うチャンスを与えられませんでした。
院政を行う事が出来れば、天皇ではなくても実権を握る事が出来ます。実際には院政を行うチャンスはあったのですが、鳥羽上皇らが計画を立ててこれを阻止しました。
鳥羽法皇は、近衛天皇が若くして崩御したのは崇徳院と藤原頼長が呪詛をかけたせいであると信じていました。
実の父親にここまで恨まれる事になった崇徳天皇はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。
五部大乗経の写本を収められなかった
崇徳天皇は保元の乱に破れ讃岐に流されてから、すっかり権力を手にする事を諦めたと言われています。
この世への恨みを忘れる為に仏教の修行に励み、法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経といった五部大乗経の写本作りに専念します。
この写経作りには3年間を費やしました。
戦死者の供養の為に、また崇徳天皇の反省の気持ちを込めてこれを後白河院に送ります。
しかし後白河院はこれを「呪詛がかかっているのではないか」という理由で受け取らず、写本を崇徳天皇に送り返しました。
この世への恨みを捨てる為に作った写経をそのように扱われ、崇徳天皇は激怒します。
一説によると崇徳天皇はその後送り返された写本に、自分の舌を噛み切った血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と記しました。
その時の崇徳天皇は爪も髪も伸びきっており、まるで夜叉のようであったと言い伝えられています。
生きたまま天狗になったとも、柩からとめどなく血があふれ出したとも言われており、写本にまつわる恨みは非常に深かったと考えられています。
崩御しても朝廷から無視され続けた
保元の乱が終わり、崇徳院は罪人として扱われるようになりました。
讃岐の地でひっそりと最期を迎えた崇徳院ですが、崩御したあとも崇徳院は罪人であるという認識が変わる事はありませんでした。
国司によって形式的な葬儀は行われましたが、朝廷が何かをするという事はありませんでした。
生まれてから最期まで朝廷にはひどい扱いをされ続けた崇徳天皇ですが、崩御した後もこのような対応をされたとなれば恨みが残り、妖怪、怨霊となってしまったと噂されるのもムリはありません。
崇徳天皇の死後の災いの数々
崇徳天皇が妖怪になった、怨霊となってこの世を祟っていると言われ始めたのは、崇徳天皇の死後十年以上が経過してからです。
その間、皇室関係者の死や動乱が相次ぎ、これは崇徳天皇の恨みのせいではないのか?と考えられるようになったと言われています。
崇徳天皇が崩御してから、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こります。さらに白河院や忠通に近い人物が次々に命を落としていきました。
後白河院は精神的に追い詰められ、次は自分が崇徳天皇の呪いによって殺されるのではないかと恐怖するようになっていきました。
崇徳天皇の怨霊を鎮める為に後白河院は保元の宣命を棄却、藤原頼長にも太政大臣の地位を送りました。
保元の乱が行われた洗浄には崇徳院廟を設置する等様々な対応をしました。
崇徳天皇が妖怪・怨霊として登場する書物
後白河院が崇徳天皇の魂を鎮める為に様々な事を行いましたが、かえってそれが崇徳天皇の恨み、辛み、また崇徳天皇の壮絶な人生自体を世に広める事になりました。
崇徳天皇が妖怪、怨霊として祟っているというイメージはすっかり定着し、江戸時代には崇徳天皇が登場する書物が多く見られます。
江戸時代後期に出された「雨月物語」では崇徳院の墓に訪れた西行法師が崇徳院の怨霊と対面するシーンが描かれています。
葛飾北斎画、曲亭馬琴作の「椿説弓張月」には、源為朝の危機を助ける怨霊という役柄で崇徳天皇が登場しています。
崇徳天皇を守り神とする言い伝えもある
崇徳天皇が妖怪、怨霊として描かれる事が多い一方で、当時讃岐があり崇徳天皇が流された土地である四国では、崇徳天皇は守り神であるとする伝説もあります。
後白河天皇のひ孫であり、承久の乱で土佐に流された土御門上皇は、讃岐に立ち寄った際に琵琶を弾いて崇徳天皇の魂を鎮めました。
崇徳天皇の魂はこれに感動し、土御門上皇の夢に現れて彼とその家族を守ってくれたと言われています。
他にも室町時代には、細川頼之が守護となった際に崇徳天皇の菩提を手厚く葬ったところ次々と成功を収めたとも伝えられています。
崇徳天皇は自分を無視し続けた朝廷には恨みを持っていると思われていますが、自分に敬意を払って接してくれた人は護ってくれる、加護してくれると考えられています。
現在でも京都の安井金比羅宮には崇徳天皇が祀られています。訪れた際には是非このエピソードも思い出して、心を込めて参拝しましょう。
歌人として才能に溢れていた崇徳天皇
崇徳天皇は頻繁に歌会を催していました。さらに和歌の世界にも没頭し、歌集の選集も行っていました。
鳥羽法皇等は和歌にあまり興味がなかった為、崇徳天皇が中心となり歌壇を展開していきました。
「久安百首」「詞花和歌集」は、和歌の世界では非常に有名です。
また、百人一首に選ばれている
「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
という歌は、崇徳天皇が詠んだ歌の中でも非常に有名です。
岩にぶつかった水は一旦二つに分かれるものの、また一つに戻る事が出来る。この世で結ばれなかったとしても、来世で結ばれるでしょうという意味が込められたロマンティックな歌です。
讃岐に流された後も多数の歌を詠んでいます。
しかしその中には世に噂されているような恨み辛みのこもったものは非常に少なく、この世を嘆き、悲しんでいるような歌が多いのが特徴です。
上記の歌の他にも崇徳天皇は素敵な歌を沢山詠んでいますので、気になる方は是非調べてみて下さい。
まとめ
地位をめぐって悲惨な人生を歩んできた崇徳天皇についてご紹介いたしました。
崇徳天皇は若くして大人の良いように利用され、なかなか思うように動けず、退けられてひっそりと亡くなっていきました。
その生涯は壮絶なもので、後世まで語り継がれています。
妖怪、怨霊として書物に登場する事もあり、少し日本の歴史に詳しい方や妖怪に詳しい方なら聞いた事があるかもしれません。
平将門、菅原道真に並ぶ日本の三大妖怪の1人として紹介される事も多いです。
崇徳天皇はこの世に恨みを残して死んだとされるものの、その生涯の中で数々の素晴らしい歌を残しています。熱心に写経を行っていた事からも、文化人として優れた一面があった事もわかっています。