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【やさしい仏教入門】自分探し(汝自身を知れ)の正しい意味や解釈

祈り

こんにちは、管理人の凛です。

今回は、仏教における自分探しについてご紹介いたします。

「自分探し」と聞くと実際に旅に出たりするイメージもありますが、仏教では旅に出る必要はありません。

なぜなら自分探しとは、今ここにいても、自分自身を深く探求できる事だからです。

自分自身を知るとはどういう事なのか、どのように自分自身を知る事が出来るのか、仏教における考え方を見ていきましょう。

目次

他者を鏡にして自分を探す事は出来ない

観光

「自分探し」の為に旅に出る人の話はよくあります。しかし、旅をしたからといって、本当に自分自身を探す事が出来るのでしょうか。

自分自身を知る為に海外に行くと、様々な文化や考え方に触れる事が出来、自分の中に新しい気づきを発見する事が出来ます。

他者と比べて自分自身を知るというのは比較的簡単な自分探しの方法ですが、これにはリスクが伴います。

他者に自分の姿を写す時、そこには必ず主観が入ってしまいます。

自分に都合の良い解釈をしたり、実際に都合の良い事だけを見たりして正しい判断が出来なくなります。

反対に、自分に都合の悪い事をする他者に対しては、その行動がその人にとって「善」の行動であったとしても「あの人は悪人だ」「あの国の文化は日本よりも劣っている」等という気持ちを抱いてしまいます。

この善悪の判断は状況によって正反対のものになる事もあります。

そのような判断基準で自分自身を本当の意味で理解するのは非常に困難な事です。

海外に行って違う価値観と出会い自分探しが出来たと思っても、それを過信してはいけません。

仏教とは自分自身を映し出す鏡

仏教は、一言でこういうものだ、と言い表すのは非常に難しいです。

お釈迦様の教えは書物に残されていますが、その説法の量は半端なものではなく、お釈迦様の45年間の教えが全て記載されています。

それらは一切経と呼ばれていますが、その量はなんと7,000巻以上もあります。

この中には仏教の基礎とも言える教えから、さらに発展した教えまで全てが記されています。

仏教を学ぶ人でも、これらを全てを読み解き、解釈する事は難しく、それをたった一言で言い表す事は到底出来ません。

しかし、お釈迦様は亡くなる間際に「45年間の教えを一言で表すなら何となりますか?」という弟子の問いに対してこのように答えています。

「仏教は法鏡である。私はあなたたちに法鏡を授けた」と。

法鏡とは仏教の中に登場する言葉で、真実を、ありのままを写す鏡の事です。

仏教の教えは、真実の探求であるのかもしれません。自分自身の真実を掴むため、日々の学びがあるのです。

法鏡は自分探しに欠かせないもの

仏教とは法鏡を見る事であり、自分自身を知る事である、と言われても、自分の事は自分が一番よく理解している、と思う方もいるでしょう。

しかし、自分自身の事は自分自身が一番分かっていなかったりもするものです。

写真を撮影された時に自分の表情やポーズの癖を知ったり、体型に気づくこともあります。また、動画を撮影された時に話し方や動き方の癖を見つけた、という経験がある方は多いでしょう。

このように、外見だけでも、自分自身では気づいていない事が多くあります。

性格や考え方まで含めれば、人間は自分自身の事をほとんど理解していないと言えるでしょう。

仏教では、自分自身について見つめ直せる教えが沢山あります。

一つひとつ理解していき、自分と真正面から向き合う事で、自分の癖や特徴を知り、自分自身を見つめ直す事が出来ます。

「七慢」が自分探しを邪魔している

傲慢な態度

仏教には七慢という言葉があります。

これは自惚れの事で、自惚れを七つに分類したものです。

「慢」は自分よりも劣っている人を見下す気持ちを示しています。この慢によって見下された相手は苦しむ事になりますので、慢の心で相手を見る事は仏教では悪い事とされています。

「過慢」は相手と比べて自分は同じくらいのレベルなのに、それでも見下そうとする気持ちの事です。「どんぐりの背比べ」という言葉があるとおり、傍から見ればどちらもあまり変わりはないのに、それでも自分の方が優れていると思い込もうとする気持ちです。

「慢過慢」は自分よりも優れた相手に対して、違う部分で自分の方が優れていると思い込みたい気持ちの事です。頭の良い人に対して「でもあの人より自分の方が見た目が良い」「あの人は性格が悪い」等と言って、相手の優れているところよりも自分がどの部分で勝っているか粗探しをしようとします。

「我慢」は、日常的に利用されている我慢とは意味合いが違います。仏教の七慢において我慢とは、自分が間違っている事に気づいてもそれを認めず、自分の意見を貫こうとする気持ちの事です。周囲から止められても、また自分でその選択が良くない事だと分かっていても引くに引けない状態の事です。

「増上慢」は仏教において悟りを開いていないにも関わらず、悟りを開いたと自惚れる気持ちを示します。

さらに「卑下慢」は自分の不甲斐なさを謙遜しつつも、その謙遜する気持ちを鼻にかける気持ちです。「自惚れずに遠慮出来る自分こそが偉い」と、心のどこかで感じている状態の事です。

「邪慢」は自惚れる価値もないような事を自慢する事です。他人から見ればどうでも良い事を、さもすごい事のように自慢してしまうのはこの邪慢の気持ちがあるからです。

この七つの「慢」の気持ちがある事で、人間は他人と自分ばかりを比較してしまい、なかなか自分を見つめる事が出来なくなってしまいます。自分自身を知る為には他者は必要ありません。

他人と比べてどうという事ではなく、自分自身がどのような存在であるかを知る為には、法鏡で自分を見つめるしかありません。

法鏡で自分自身を見つめる理由

仏教では自分自身を見つめる事は非常に重要です。

しかし、なぜ、自分自身を見つめる事、自分探しをする事は重要なのでしょうか。

例えば、就職活動では、就職したい企業を研究する事も大切ですが、それよりも履歴書、エントリーシートを正確に記入する必要があります。

その為には自分の能力を把握し、自分がなぜその企業に就職したいのか、自分はその企業にどのような良い影響を与えられるのか、どのような能力を発揮出来るのかを分析していかなければなりません。

また、どのような仕事に就きたいか分からないという時は、自己分析をして自分に向いている仕事、自分に向いていない仕事を把握してから仕事探しをする必要があります。

就職先の企業について調べるだけでは就職活動を乗り切る事が出来ず、いずれ失敗してしまいます。

これは恋愛や人間関係等でも同じ事が言えます。相手の事を研究するだけでなく、自分のアピールポイントや自分の改善点を見出していく事で、より有利に物事を進められるようになります。

そしてそれらは、あなたの人生をより豊かに、幸福なものに導いてくれる事でしょう。

仏教ではこのように、自分を見つめてより幸福な人生を歩む為の教えを説いてくれています。

自分探しにまつわるお釈迦様のエピソード

釈迦

自分探しについて、お釈迦様のエピソードにこんなものがあります。

ある時、道端でお釈迦様に声をかけた数人の男がいました。

その男たちは「この辺りに怪しい女が通らなかったか?」と聞きます。

理由を聞けば、男たちは宴会をしており、その中には女を連れてきた者がいました。

その女は容姿も美しく話も達者で、男たちに仕切りに酒を勧めました。

男たちは言われるがままに酒を飲み、結局宴会の途中で眠ってしまいました。

そして男たちが起きると女の姿はなく、彼らが身につけていた宝石や財布がなくなっていたのです。

その女が盗んだ事は明白です。

男たちは女を探しました。そして、男たちは女を探す途中にお釈迦様と出会ったのでした。

男たちの話を聞いたお釈迦様はこう答えます。

「事情はわかったが、女を探す事とあなたたちが自分自身を探す事、どちらが大切でしょうか」と。

それを聞いた男たちは「探さなければいけないのは自分自身の事だったのか」と気づきます。

その後、彼らはお釈迦様の教えを聞き、弟子になりました。

このエピソードでは、何か悪い事があった時に「あの人のせいだ」と責めたくなってしまいがちですが、本当の苦しみの原因は自分自身にある、という事を教えてくれています。

まず自分自身を知る事で、「お金がない」「女が憎い」といった苦しみから解放されます。そんな仏教の自分探しに繋がるエピソードです。

「汝自身を知れ」とは自分の無知を知る事

自分探しについての言葉で有名なものに「汝自身を知れ」という言葉があります。

これはソクラテスが世界に広めたものですが、実際には2000年以上も前から考えられてきたものでした。

ソクラテスは「汝自身を知れ」という言葉について、人間の知恵は神の知恵に比べてはほんの些細なものであるから、まずは自分の無知を知る事から始めなければならないと考えました。

自分の無知を知る事でより哲学的な反省をする事が出来、それは哲学を学ぶ上で非常に大切な事だと考えたのです。

自分自身を省みる事が出来ない人、反省出来ない人は、人間として成長する事が出来ません。

失敗を誰かのせいにしたり、環境を変える為に何の行動も起こさなかったり、感情的な行動ばかりするようではいけません。

この考え方は哲学の基本でもありますが、仏教を学ぶ上でも大切な事です。

世界で考えられてきた自分探し

自分探しは仏教だけでなく、世界中で昔から考えられてきました。

それぞれの考え方について、見てみましょう。自分探しが、古今東西、重要とされてきた課題であるのが分かります。

西洋哲学における自分探し

デルフォイ遺跡

西洋哲学の自分探しの中でも、有名な自分探しについての考え方があります。
ギリシャ、デルフォイ神殿に刻まれた「汝自身を知れ」という言葉です。

この神殿は2000年以上前からあったもので、非常に古くから人間は自分探しについて考えていました。

さらに16世紀ごろ、フランスの哲学者であるモンテーニュは「自分自身を知る事こそが世界で最大の事である」と書き残しています。

20世紀にはドイツのカッシーラーが「自己を知る事が哲学の最高の目的である」と述べています。

西洋哲学では自分を知る事こそが重要であり、哲学の最終的な目的は自分自身を知る事にあるという考え方が根底にあります。

他にも西洋では、古くから自分探しについての記述が沢山あります。

エジプトのスフィンクスの自分探し

エジプトのピラミッドの守り神、スフィンクスは、旅人に下記のような質問をします。

「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足とは何か」

この質問の答えが「人間」だというのはあまりにも有名ですが、これに答える事が出来なかった旅人はその場で殺されてスフィンクスに食べられてしまったと言われています。

このエピソードでは、答えは「人間」です。つまり、人間という自分自身である事すらも分からないのであれば、このように殺されて食べられるような目に遭う、ということを示唆しています。

自分自身を探求することの厳しさを描いています。

中国の孔子の問答

孔子像

孔子は、中国で儒教を生み出しました。

孔子の問答は現在でも沢山の書物に残されていますが、その中でも自分探しについての問答が下記のものです。

「引越しの時に妻を忘れた人がいると聞いた事がありますが、本当にそんな人がいるものでしょうか?」

「妻を忘れる事はそれほどひどい事ではない。もっとひどいのは自分を忘れてしまう事だ」

というものです。

妻という身近な存在よりも、もっとかけがえのない自分自身を忘れてはならないというエピソードです。

まとめ

仏教の自分探しについて、その正しい意味と解釈をご紹介いたしました。

自分探しとは、ただ海外に行ったり、好きな事を探求するだけではありません。

他者と比較して自分を見つめ直すのではなく、自分自身としっかり向き合う事こそが本当の自分探しに繋がります。

仏教における「法鏡」の考え方を知り、仏教を学び、理解しようとする事でも、自分を見つめ直す事が出来ます。

自分自身について、静かに向き合う時間を作ってみましょう。

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